【企業戦略(海外市場での成功)】自動車会社スズキのインド市場における成功要因の分析

ビジネス

本ブログでは自動車会社スズキのインド市場での成功を取り上げその要因を分析する。

自動車会社、企業戦略、について興味がある方にお勧めのブログとなっています。
日本企業の海外展開の参考になれば幸いです。

2020年現在スズキはインド自動車販売台数でシェア4割程度を確保している。
1980年代~1990年代にかけていち早くインド市場に進出したことが成功要因と考えられるが、後述するようにトヨタなどの日本メーカーも当時参入を試みて失敗に終わっている。なぜ、スズキだけが生き残ることができたかを考察する。

現在のスズキとインドの関係

インド自動車工業会によると、2017年9月単月の乗用車市場における販売台数シェアでは、トップのスズキが44%、第2位のヒュンダイが14%である。2位の差は30ポイント以上の差をつけていることが分かる(図1)。インドにおける売上のスズキ本体に与える影響も年々大きくなってきている。図2はインド市場の完全子会社であるマルチ・スズキの業績とスズキ本体の業績を示している。2015年以降はスズキの連結売上高に占めるマルチ・スズキの売上高は、30%を越えるほどになっていることがわかる。2017年、インドの国全体の販売台数は、中国、米国、日本に次ぎ4番目であり、401万台となっている。自動車業界において、インド市場の重要性は高まってきて来ており、インドで高いシェアを誇っているスズキはグローバル展開で成功したといえる

図1 インド2017年自動車シェア
マルチスズキとスズキ本体の業績

インド市場とスズキの歴史

スズキの市場進出の歴史を、順を追って振り返ってゆく。
(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ、R.C.バルガバ(2006)スズキのインド戦略より筆者作成)

1981年             インド政府の「国民車構想のパートナー募集」に応募したことがきっかけとなり、
        インド進出を検討する。
        国民車構想はインド政府の5か年計画に予算が組み入れられた国家プロジェクトである。

1983年             スズキとインド政府との合弁会社「マルチ・ウドヨグ」を、
        資本金200憶円、出資比率インド政府74%、スズキ26%で設立する。
        当時日本で売れていた初代「アルト」をベースに排気量を800ccにして
       「マルチ800」を投入し、爆発的にヒットする。

1991年             インド経済が自由化され、自動車産業に対する産業政策と外資政策が大幅に緩和される

1992年             インドにおいて乗用車部門に対する産業ライセンス制度が撤廃
        (この影響で1997年ごろから、競争が激化する)
        外資の過半以上の出資が可能になったことからスズキの出資比率を50%まで高める。

2002年5月       出資比率を54%へ引き上げマルチ・ウドヨグをスズキが子会社化する。

2006年             インド政府が全保有株式を売却することでマルチ・ウドヨグは完全に民営化される。

2007年7月           社名が現在の「マルチ・スズキ」と変更される。

進出当時のインド市場とスズキの成功要因

市場環境

1980年代、インドの自動車市場で出回っている自動車は、「アンバサダー」「プレミア」の2社が出しているほとんど2モデルしかなかった(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)。自動車性能は決してよくなかったが、自動車の販売価格も統制されており、さらに2社は政府により製造免許を交付されている国営企業であり競争もなかったため、25年以上同じ車種を製造し続けていても生き残ることができていた。一方で、自動車は普通の市民にとっては手の届かない存在であった。そこで、新たな国民車構想という国民の手の届く車を国内で生産する計画が持ち上がった。

当時、国内では小型車(排気量1200cc以下)の税金優遇の措置をとっていた。さらに、都市部の過密化や駐車スペースの減少も重なり、インド市場で一番売れていたのは「小型車」であった。他方インドは、輸入車に対して高い関税を設定し、輸入手続きを煩雑化させるなど、自国の自動車産業を保護していた。外国企業のインド国内での自動車生産許可でさえ1982年からである。外国メーカーに対して厳しい規制を敷いていた。

この頃日本メーカーは、アメリカとの自動車摩擦対策に腐心しており、インド現地で合弁会社を作り市場の機会はうかがうものの、インドの国民車構想にほとんどの日本車メーカーが手を上げなかった。 つまり、参入当時、競合であるインド国内メーカーの品質は低く、日本メーカーもインド進出に積極的ではなかった。さらに、インドでは小型車が主流であり、スズキが1979年に大ヒットした軽自動車のアルトで培ってきた技術力を存分に発揮できる環境であり、国民車構想のパートナーに選定されたことは千載一遇のチャンスであったといえる。のちに鈴木修社長はこう述べている(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)。「インドの「国民車構想」の候補に挙がったから、チャンスを逃すべきじゃないって必死だったんですよ。」

顧客ニーズ

インド人は経済観念が発達しており、おそらく世界中で一番コスト意識が高く、支払った金額に対しては最大の価値を求める(R.C.バルガバ(2006)スズキのインド戦略)といわれている。そのため製品のコストパフォーマンスが売れ行きを決めていた。当時トヨタや日産もインドで合弁会社を設立していたが、既存の車に対して価格競争力のある製品を提供できず失敗に終わっていることからも、インド人のコスト意識がうかがえる。

つまり、スズキは1979年にアルトが大ヒットしたことにより小型自動車のコストと品質に強みがあり、それがインド人のニーズにマッチしていたといえる。 さらに、スズキは1985年にマルチ800をモデルチェンジし仕様の現地化を推し進めている。インド人は日本人よりも背が高く大柄なうえに家族の構成員の数か多いことから、車の居住空間を広げるために、ボディーサイズをそのままにして、居住空間を広くとった。さらに足回りのスペースについても拡大した。この仕様の現地化も、マルチ800の販売を推し進めた要因の一つである。

マルチ800を安価に抑えるための生産面での企業努力

マルチ800に競争力のある価格を持たせるために最も困難なミッションは、自動車部品の調達であった。当時マルチが必要とする部品を安定した品質と低いコストで供給できる現地メーカーはなかった。さらに、日本の部品メーカーも市場の不透明性からインド進出にはほとんど踏み切らなかった。日本の部品メーカーがインドに進出し始めたのは、マルチ販売から3年がたった後の1985年ごろからである(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)。そのため、製造開始時は、部品をほとんど日本から持って行ってインドで組み立てる方式をとっていた。のちに、スズキがインド政府に輸入関税引き下げを要求し、自動車部品の関税率が引き下がるなどして、政府を巻き込んだ形で現地生産体制を整えた(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)。一方で、部品の現地調達のための施策も欠かさなかった。現地部品メーカーに新技術の導入するために、インド政府と協力して自動車部品の国産化5か年計画を策定し、既存の現地部品メーカーを育成した。ほかにも可能性のある部品メーカーには資本参加するなどして、地場の自動車部品供給体制を確立した。2018年現在では部品の国内調達率は9割を超えている。

自動車部品供給体制のほかにも、製品を安価に抑えるためのさらなる施策として、日本で使い古した金型などの生産設備を持ち込んだ。

鈴木修社長は当時の状況を、「馬鹿正直に言うと、スズキ自体も損得を離れて、インドに対して献身的な貢献や努力をしたってことは言える。損得を離れてやっている時期があった(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)」としている。

つまり、参入当初はマルチ800に競争力のある価格を持たせるため、一時的に損得を忘れ、部品の輸入や現地メーカーの育成を行い、また中古金型の持ち込みを行うなど、生産面での企業努力を怠らなかったといえる。社長の強い思いにも引っ張られ、市場開拓を推し進められた。

チャネル

マルチ800の製造についてはスズキのやり方で全面的に推し進めるが、販売については、インドの自動車業界の慣行を壊すことはあえてせず、他社と同様に専売ディーラー網を組織した(R.C.バルガバ(2006)スズキのインド戦略)。好調なマルチ800の販売によって地方の有力者からマルチのディーラーになりたいという申し込みが殺到し、強力な販売ネットワークを整備できた。さらに、ディーラー間で競争を促すことで、より質の高いディーラーネットワークの構築に成功した。

製造における日本的経営の導入

インド進出で大きな問題となるのが、カースト制度などの会社組織の問題である。インドでは、階層により社内の役割は明確に分けられていた。経営者と労働者は敵同士であるし、コミュニケーションも取らなかった。1日8時間働く忠誠心は持っていなかった。

合弁会社設立当初は技術、生産設備、経営システムの導入がスズキに全面的に任せられていた。スズキが少数株主にもかかわらず、である。そのため、スズキは日本で採用しているやり方である「幹部も作業服を着て、掃除もやる」スズキ流の日本式経営の導入を進めた。

下記のエピソードが紹介されている(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)。できかけの工場に行って見ると、幹部用の個室が作ってあったという。「こんな個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは絶対認めない」と、できあがっていた壁をすべて取り払わせ、大部屋にした。さらに、幹部たちは作業着や現場での掃除も嫌がった。幹部たちは「掃除などは、カーストの低い人の仕事だ」と、言うことを聞かなかった。鈴木は「ふざけるな」と怒って、「工場運営はスズキの主導でやることになっている。それができないなら、インドにおさらばして日本に引き揚げる」と言った。最初は反感があったが、そのうちに、リーダー格の人々が作業服を着て、現場のラインに出て行くようになり、日本流が浸透し始めた。

さらに、「日本人には会社の前進が最優先だが、インド人には自分のキャリアの前進の方が優先。こうした差を把握したうえで、マルチでは会社の前進が個人の前進に直結すると、ホワイトカラーにもブルーカラーにも理解してもらえるよう取り組んだ。」と鈴木社長は言う。従業員の教育とコミュニケーションには相当な時間をかけていた。コネ、カースト制度、宗教とは関係のない人員選抜や、日本への研修派遣を頻繁に行った。幹部だけでなく現場の作業員、労働組合の幹部までも日本へ派遣した。あらゆる職階のインド人を次々と日本に迎え入れて、現地研修に注力した。「振り返ってみれば、ブルーカラーとホワイトカラー、従業員とマネジャー、みんながひとつのチームとして働いたこと、企業の利益の最大化と個人の利益の最大化を一致させたことが鍵だったね。」と述べている。労使協調はインドでは画期的であり、インドの労働者の意識や労働文化をスズキ流に変革することができた。 つまり、製造現場での対応や組織設計、人事制度などは、現地化するわけではなく、スズキ流で勧められたことが成功要因の一つと考えられる。

マルチ800成功要因のまとめ

成功要因は市場環境、顧客ニーズの外部環境と、現地の生産体制など企業努力や、インド式チャネル、日本式組織体制の内部環境が、小型安価な製品を通じて、一貫していたその一貫性であると考えられる。その裏には、政府との協力や初期の赤字生産を推し進めた社長の思いがあったと考えられる。

その結果、「マルチ800」は作れば売れる状態であった(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)。また、図3(参考文献(鈴木 修(2009) 俺は、中小企業のおやじ)より引用)よりわかるように、1997年に自動車市場の競争が激化するまで、インドの自動車生産台数はスズキの生産台数と共に伸びていた。内部環境だけでなく、政府の後押しや競合がいないという外部環境の影響も大きかったことがわかる。さらに、この期間で、現地での生産体制や販売体制を確立したことが、1997年の競争激化後も一定のシェアを確保できた要因であると考えられる。

図3
まとめ

2020年度のスズキ

日本経済新聞によると、スズキ本体は、売上、純利益ともに2018年をピークに下降傾向にある。

インド市場の成功により、インド重視の戦略をとってきたが、コロナの影響により2020年4~7月期は純利益96%減となったと報じられている。

4月には、インドで生産台数がゼロとなったようである。

一方、生産台数販売台数ともに回復してきているとも報じられている。

参考

参考に、トヨタのインド市場での取り組みと、スズキの中国市場での取り組みを紹介する

インド市場 トヨタ自動車の失敗とその要因

トヨタの苦戦の原因を総括するなら、インドの消費者に支持される機能を備えた低価格の小型車を供給できなかったことに尽きる、とされている(長嶋直樹(2012) インド進出企業の事例研究から得られる示唆 富士総研(FRI)経済研究所 研究レポートNO.397)。

トヨタは、1983年(マルチスズキ設立と同時期)に、繊維系財閥DCMと合弁会社DCMトヨタを設立し、デリー近郊で商用車「ダイナ」を生産したが、ビジネスとして軌道には乗らず1994年にインドビジネスから撤退した(長嶋直樹(2012) インド進出企業の事例研究から得られる示唆 富士総研(FRI)経済研究所 研究レポートNO.397)。また、1990年代に再度インド市場に参入することとなるが、2017年現在シェアは4%程度である。

原因としては、トヨタの技術標準をグローバルに適用しており、企業内の技術進歩にとって重要な役割を担う技術標準があることがあげられる。「技術水準を低下させ安価に製品を製造する」という方針は取りづらく、インドを例外的に扱うといった経営意思決定が難しい、とされている(長嶋直樹(2012) インド進出企業の事例研究から得られる示唆 富士総研(FRI)経済研究所 研究レポートNO.397)。

また、部品メーカーとの連携についても、多くの研究が明らかにしているようにすり合わせ型の自動車産業では、部品メーカーとの綿密な連携が重要である。しかし部品メーカーにも技術水準が適用されるため、系列部品メーカーの技術も下方硬直的になっている(伊藤清道(2011) なぜトヨタがインドでは苦戦するのか 国際ビジネス研究(国際ビジネス研究学会誌)第3巻第1号)とされている。技術水準によって現地部品メーカーとの連携も困難となっている。  つまり、トヨタのグローバル化を推し進めた「技術水準」がインド進出の足かせとなり、低価格の車を供給できなかったことが、失敗の原因であると考えられる。

スズキ 中国市場での失敗

スズキの中国での失敗は、スズキの技術的優位な小型車が、中国での市場ニーズである大型SUVと一致していなかったことだと考えられる。

下記、日本経済新聞の抜粋である(日本経済新聞 2018年9月5日)。

2018年9月、重慶長安との合弁会社について、スズキが保有する50%の持ち分を重慶長安に売却することで合意したと発表した。1993年に合弁会社、重慶長安鈴木を設立したが、2018年度中をめどに手続きを完了させる方針だ。

スズキは6月に、もう一つあった中国合弁事業を解消した。合弁相手の江西昌河汽車に保有していた46%の株式を譲渡した。2つの合弁を合わせて、中国での生産は過去最高だった2010年度に比べて17年度は7割少ない8万6000台まで落ち込んでいた。

中国ではより大型のSUVなどが売れ筋になっていることが影響した。中国政府が普及を後押しする電気自動車(EV)が品ぞろえにないことも逆風となった。

世界2位の米国市場に次ぎ最大の中国市場からも撤退、成長が続くインドやライバルが手薄なアフリカなどにかじを切る。 「うちみたいな中小企業が大手に太刀打ちできるはずがない」と修会長はいつも周囲に自嘲気味に語る。しかし、その言葉の裏には「他社と違うことをしないと生き残れない」とのしたたかな計算がある。スズキ独特の戦略が奏功するか、今後の動向が注目される。

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がみ
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